Vanity of vanities

Kei Koba in CER, Kyoto University, Japan

あるものがあることのすごさ

また埴谷雄高になってますが。

 

 

頭がまだ痛いのですが1時間遅れでやってまいりました。YOASOBIを大音量で流しながら、パステルカラーだよなぁ、と思っていたら目の前に鮮やかな朝焼けが。V字編隊で飛んでゆく鳥たちが。朝少し遅いと車の流れが悪いのだけれど、良いことあるなぁ、と。

 

 

自分の好みを、「好き!」をいえない環境になってきている。ちがう、そういう環境を自分で創りだしている。言い訳は、あまりに身についてしまっていて、もう、自分の本意なのか、見せかけなのかすらわからない。そういった邪悪さからどう抜け出せば良いのか、聖人君子で居続けようとするのなら、その動機付けはどこにあるのか?そもそもあるのか?

 

 

唯一信じられるのは、鳥肌が立つのかたたないのか、もうそれだけなのかもしれない。まず、その感覚が薄れてなくなるのかもしれないなんて、10代のころには考えもつかなかった恐怖が毎日襲ってくるけれど、、、、、一つの休符に、文体の違いに鳥肌が立つことがまだあるというその事実は、いろいろな意味で安心させてくれる。

 

 

価値観が変わっていることにたいして、どうしても、無頓着を決め込んだり、無関心だけでなく、むしろ否定的な感情を持ったりする。否定できない。残念だ。でも、残念なら変えなければならない。変えられるの??変えなきゃいけないの?!?!

 

 

これまでだったら自分の中で価値がとても低いこと、たとえば流行っていること、でもいい、深夜ドラマのエンディングに流れてきそうな曲調、でもいい、それが今や自分の中でとても高い価値になっていること、その転向を見つめたら良い。それならできる。これまで自分が価値をおかなかったものがとても価値があるといま、自分が感じている、感じてしまっている事実から立ち上がろう。そこをごまかすなら死んだ方がましだ。

 

 

好きなものがなぜ好きなのか、理由を探す。休符に込められた意思、和音の濁りに込められた思い、そんなものがこれまでなら10の属性に切り分けられて、でこぼこしていたようなものが、今目の前に流れてくる、色を持った曲は、100の属性になっていて、しかもそれらが高いレベルで、絶妙なバランスを持って、多様な姿を見せている、そこなんだろう、考えが及ぶのは。でも、一方でそんなことどうだって良い。ただ、好きだと身体が言っているのであればそこに身を任せたら良い。気持ち悪いと思ったなら距離を取ったら良い。そこの本能的なものを信じたら良い。どれだけの疑念が生じても、信じるべきところはそこにしかない。

 

 

いま目の前に流れているものに、文句を言うことも、評価を薄っぺらく付けることも簡単だ。しかし、いま、この目の前に流れているものが、誰かが作り出さなければ決してこの宇宙に存在し得なかったものだという、途方もないことを改めて考える。人間原理はおいておいて、とにかくあるものがある、そのことの不思議さと、そこに自分が思いをはせると言うことの不可思議さを考えながらコーヒーを淹れている。

 

 

そういう意味で、何かを生み出せるとしたら、学生さんたちの中にそれぞれの価値観の礎となる何かしらの考え、なんだろう。それを生み出すことの助けができるために、何ができるだろうか。そして、自分の中での考えを表現する1つとして、論文があるんだろうな、と。楽曲は少しでも多くの人に届けなければならないという制約があるだろうから、どうしても全力でできないところがあるはずだ(このコード進行ではついて行けない、とか)。でも、論文は、真理に向かうという営みにおいて、制限がない。査読者から否定されることは確実に毎回あるが、それでも、全力を出し切るほうほうがある。これってありがたいことなのだろうな、とか。自己表現としての論文なんて、なんてことだ、とこの30年以上思ってきたけれど、何回も巡り巡って、そういう考えで、残り少ない研究者人生での論文を書いても良いんじゃない、とか。

 

 

いや、たんにね、ほんまこの半年、いわゆる流行っているものの、質があまりに高くて、楽しくって仕方ないだけなんですけどね。楽曲も、漫画も、エッセイも、論文も。未来は明るいよ。

本拠地はこちら http://www.ecology.kyoto-u.ac.jp/~keikoba/