Vanity of vanities

Kei Koba in CER, Kyoto University, Japan

「異分野融合、実践と思想のあいだ。」について

異分野融合、実践と思想のあいだ。 

鳥肌の立つ本である。鳥肌の立つ本はそうそうない。今書きたいのは書評のようなものではない。たんに大事な言葉を記録しておきたいという欲求にのみ動かされて眠い目をこすっているだけである。ご期待なさるな。また,適宜書き直さないと,いったい何を書いているのか自分でもわからない。しかし,これは,本当にすばらしい本である,と最初に書いておく。


異分野融合,学際的,という言葉の響きの良さとともに必ず舌の上に残る罪悪感というものをずっと,ずっと感じてきた。本当に異分野融合ということを考え始めた博士課程のころからずっと。


この本は,とある方にお願いして特別に譲っていただいた(K先生,ありがとうございます)。前半のわくわくする事例もすばらしい。読んでいて本当にわくわくする。しかし,ここで取り上げたいのはこの本の後半,以前より大学での研究教育活動について鋭い視点を持つだけでなく様々な活動をなさってきた宮野公樹氏の,熱のこもった言葉が繋がる後半部である。


使われている言葉は平易であり,わかりやすく,ある意味キャッチーである。だれでもその内容を理解できるようなわかりやすい表現で理想と現実のギャップについて述べられている。批判もとてもわかりやすい。


しかし,その一つ一つが,本当に良く考え込まれた,とぎすまされた言葉であることに,気づく。気づき,鳥肌が立つ。これはただごとではない。ページをめくりながら大事な言葉を拾ってゆくことにする。


『そもそもこの世に「融合」していないものなど,何一つない。ゆえに,他の分野と"融合”していない研究分野など,あるわけがない』(p73)
『「手段としての異分野"連携"」』(p73)
というところですでにノックアウト寸前であった。その通りである。その,その,その通りなのだ。「どれだけがんばっても,融合はできないんだ,連携でしかないんだ」とため息をついた先達をどれだけみてきたことか。

(私事については書き始めるときりがないが,ひとつだけ,連携から抜け出すためには,真の「融合」という形に昇華することができるとしたら,それはまずは個人の中でいろいろな研究分野をごちゃ混ぜにすることであろう,どろどろに溶かしてしまうことであろう,という考えに基づいて,自分自身でできる限りいろいろな分野に手を出して(そして失敗して)来ている,そのことだけはここに記すことを許されたい)


『共通目標のもと,
異分野が協力するのが「連携」
異分野が対立するのが「融合」』(p74)
この見出しで鳥肌が立った。これは,ちょっとひねりが効いていてなかなかよい,,というような軽い言葉ではない。この言葉に至るには,この言葉が言葉として表れてくるためには,かなりの勇気と決意が必要だ。単に対立という言葉を出すときの勇気,ということではなく,もっと深い意味で。うまく表現できないが,そんなに簡単にはこの言葉に結実はしない。


『連携と融合を混同してはいけない』(p77)
この言葉も素直に受け取れる言葉なのだが,その意味は深い。異分野融合が有効な「手段」としてとらえられる場合の誤用,つまりこの場合は"連携"として考える江部機であり,それはそれでよいというのもドライで大変好感が持てる。その通り,目標が何であるか,それに対する手段が何であるか,それがきちんと合致していればよい。問題はあやふやな目標に対して曖昧な手段を講じ,曖昧な評価を行うことで「反省」し「発展」する機会を損失してしまいがちなことなのだ。


『1970年代まで
「異分野融合」は存在していなかった』(p80)
これも,とても大事な指摘であり,とても大切な別の視線を,次元を与えてくれる,示唆に富んだ考察である。

ある分野を枠で囲み,差別化し,ある程度の充実がその中で認められたらその枠をぼやかせて,ほかの「分野」との緩やかな混合を目指す。そんな,よく考えたら真理の追究とはあまり関係のなさそうなことを我々はずっと行ってきたのだ。そこには多少なりとも権威・利潤が絡んでいたのかもしれないが,僕にとってはたとえば所属する学会が複数になることなどの現実として関連していて,果たしてこれは本当に望む状況なのだろうかと,わからないのが実際である。実際の学問の状況以上の「細分化」が様々なところで起きている。この状況は学生さんには大変不幸だ。たとえば環境,という者を学ぼうとすれば,必ず「融合」的なものにならざるを得ない。しかし,日本の多くの大学において「環境」を学ぼうとすれば専門的なものにならざるを得ない。またはあまりにも総花的なカリキュラムが組まれていて,各論をそれぞれの専門家が話をしてくれるのはよいが,では,どう統合するのか,融合するのかというのは誰も教えてくれない,学生任せ,という状況になる(これらは,自分の周りにいた環境を学ぶ学生さんたちから聞いた言葉をほぼそのまま書いている)。その安易な打開策としての異分野"連携"であり,しかしそれではあまりにも新しい印象がないために異分野"融合"という言葉を援用したのではないかと個人的には思う。そしてその"融合"という言葉がもたらす"意識・行動の変革必要性"に過敏に反応するなり,抵抗感を持つなり,ということで,実務的な異分野"協同"すらままならなくなってしまったのではないだろうか。


宮野氏の言葉に1大学人,研究者として違和感がまったくないというわけではない。たとえば,『「私,もともと○○の分野でして」,研究者はなぜうれしそうにこう自己紹介するのか』(p82)は,あまりそうとは思わないのである。事実,自分はこう自己紹介をせざるを得ない場面が多々あるが,その場合は,苦笑いをしながらであり,その理由は,ずっとその道一筋できていたまぶしい人々の前で,そういうように突き抜けてくるだけの能力も努力も足りなかったということの弁明であることが多い。事実,これまで受けてきた評価で,いろいろな分野をやってきたということがプラスになったことよりもマイナスになったことの方が遙かに多いのが個人的な事実である。なので,うれしいのではない。むしろ恥ずかしい,という感じが正直なところである。そして,しかし,いまの「若者」であるわれわれと,皆さんとはだいぶ違うのですよ,それを良くご承知いただきたい,という思いも含まれているのである。


『いわゆる「異分野と接する意味」は,自分にとって必要な役立つ知識や技を得るという機能的な効果だけでなく,むしろそれ以上に,異分野の研究者がもつ世界観を体感し,自身の世界の先入観や偏見を破壊し再構築することにある』(p87)。
この本で最も感銘を受けた言葉の一つ。我々が目指しているのは本質的な世界の理解,本質的に「理解とは何か」と考えてゆくこと,であり,それぞれの学問分野が持つ手段の多様性は,それに向けた唯一無二の武器ではないかと考えるのだ。だからこそ,HTTPにしろ,構造主義にしろ,対称性にしろ,WTPの算出方法にしろ,どのような前提で世界をとらえ,どのように理解してゆくかというそのやり方を学んでゆくことで,自分のやり方というものが少しでもできてゆくのではないか,それによって,世界を理解することに繋がるのではないかと期待してしまうのである。


「自分は真理追究のもと人間精神を高めることに人生を捧げた一学徒であること。そして,真理追究には自分の道(専門)では決して足りないことを自覚しつつもその道を進まねばいけないという矛盾のもとにあること。この構えを持ってこそ,他の学問領域や先人(または歴史)に敬意と謙虚さを抱くことができ,ようやっと異分野融合,すなわち学際研究に着手するスタートラインにたてるのである』(p93)。
そう。小手先の「操作」や「技術の援用」では融合することはない。その根底の,何のために何をやるのか,というところにどう立ち返るか,そこの問題なのだ。


あまりにも思いが強すぎるのか,全くうまく書けないことにびっくりするけれども,この本は,本当に大事な本となった。高校生のころに出会った将来を決める本,大学生のころに出会った物事の見方を全く異なる次元からみることを教えてくれた本,とともに,この本は,あと約20年近く,日本の大学という難しい組織で生きていこうと決めた自分にとって,羅針盤であり,戻る港であるような本であると思う。

本拠地はこちら http://www.ecology.kyoto-u.ac.jp/~keikoba/