Vanity of vanities

Kei Koba in CER, Kyoto University, Japan

よくわからないのです

卒論,修論というのは,本当にどこまでやればいいのか,,って,どこまでもやったら良いんだけれど,学生さんそれぞれいろいろ大事なものがあってそれぞれの価値というのがあるでしょうし。。。。


むろん,卒論,修論としてのハードルというのはあるし,実際,かなり乖離しているけれど,それらから先の,投稿論文としてのハードルもある。税金や私立の助成金をいただいて研究教育活動をしているのだから,責任ある結果公表をしなければならない,となると,やっぱりそれなりのことをやらねばならない。


僕自身はスポーツでこてんぱんにやられたところで卒論だったので,,,,意外と「世界」がちかいんだ,というのがどこかに必ずあったはず。あれだけがんばってもインカレで決勝にもいけなかったという事実は大きかったのだし。。。。その時点では院試の成績を見てもとてもとても「できる」という学生ではなかった。論文は毎日持ち歩いていたけれど。。。。持ち歩いていただけだしな,,,,


Mariotti et al. 1988 GCAをほぼ唯一のお手本としていたから,そういうものだと勝手に思いこんだというのは幸運だったのだとおもう。だれも同位体研究やってなかったのも大きかったかもしれない。とにかく,あるお手本を目の前にして,これより一歩進めなければ,ということを考えていたけれど,,,,それはたまたまそう考えただけで,たとえば普通は,これと同じことができればいい,と思うのかもしれない。または,これはすごいからこれの半分くらいできればいい,とか。


なんにしても,なんとなしに難しい方を選んでしまう(そしてほとんどの場合失敗するわけだけれど),というのは性格なのか?それは求めるべきものなのかしら?大学に残って教育研究活動をしている人なんて希有なわけで,たまたま希有な考え方をしているという自分の考え方で卒論,修論,というようなものを考えていって良いのか????


うーん。


とにかくいえることは,卒論って,今の時期,とてもできる気がしないけれど,大丈夫,みんな何とかやってきているんだから,ってこと。このことはあの当時の自分にも投げかけてやりたい。

本拠地はこちら http://www.ecology.kyoto-u.ac.jp/~keikoba/