Vanity of vanities

Kei Koba in CER, Kyoto University, Japan

「身内」の崩壊

自分は、英語、あかんなと心底おもっている。勉強すればもっともっと上達するのだろうが、それに時間をかけるより、もっとやるべきことがある、とおもってやってきた。言い訳なのは十分承知の上で。


自分の英語力は、しゃべれる、というレベルではなく、、たとえば、なんとか水にはありつける、というレベル。概念的な、抽象的な話は会話はもちろん、読む方だってだめ。書くなんてとんでもない。いま、何本か共著にいれてもらっている論文で嫌なほどわかる。


日本語を勉強している外国からの人に対して、その日本語ちがうよ、こうだよ、と教えるとき、その人は実はかなり高い日本語レベルにあることにあるとき気づいた。逆に低い人には教えないもの。


で、逆もしかり。留学していたはるか昔、ドイツ人の同僚はよく英語の間違いを指摘されていたけれど、僕はそんな経験がない。つまり、指摘出来ないレベルなのだ。ということに数回目のアラスカ調査で気づいて、潔く諦めている。しゃべるための考えを頑張る方が良いだろう、とか、データそのものが強く訴えるようなグラフを作ろうとか(努力賞狙いのグラフばかりだけれど)。


英語の話ではもちろんない。指摘されない、というとき、完璧だから指摘されなかった、なんてことはほぼあり得ない、指摘するに至らないレベルであったであろう、という、当たり前のことを、思うのである。「身内」は、その壁を、線引を下げて指摘してもらえる唯一の場だ。大事にしないと、まさに裸の王様が、いとも簡単に出来上がる。


しかし、「身内」が今や成り立たなくなってきているのである。そこが大問題だ。点で接するのではなく、面で、べったりと接している、あのうざったい、逃げられない、そんな暑苦しい空気がなかなか出来ないのだ。Weが成り立たない、といってもいいけれど。


さてはて。

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