Vanity of vanities

Kei Koba in CER, Kyoto University, Japan

綱渡り

昔から、若いもんはあーだこーだと年寄りが不平不満をもつように、昔っから、年を取るとあーだこーだと不平不満を若い人から持たれるものである。


今は中間なので、両方分かる。というよりも、年を取ることの弊害がありありと見える。そして自分の中に同じ要素がしっかり沈着していてうんざりする。だいたい自分が中間と思っている時点でおかしいのだけれども。ね。だめでしょ??


どうしてああなっちゃうかな、ということは本当にいっぱいあるのだけれども、肝心なことは、多くの人がああなっちゃう、ということは、自分だってああなっちゃうと言うことなのだ。自分だけ特別なんてことは、やっぱり、どう頑張ってもあり得ない。であれば、自分がああならないためには、なにか特別な仕組み立てを考えて、実践しなきゃだめだということなんだけれども、なかなかそこには思いは行かないし、例え行ったとしてもなかなか行動まで結びつかない。自分という存在はつねに、自分勝手に普通だし、特別だ。「死ぬのはいつも他人」という言葉がよく表している。これもデュシャンだったっけ?


忙しくて余裕が無くて、自分がしんどいしんどいと思って、他人が頑張っていることを、素直に喜べなくなって、他人は実はもっと大変なのかもしれないということに思いを馳せることができなくなって、、、、他人に迷惑を与えていること、不快感を与えていることに対する自分なりの言い訳はたくさん作れるようになって、ちょっと謝ることそれすらできなくなって、、と、悪循環に陥ることはとてもたやすい。自分を省みても毎日毎日、悪循環に陥っているなと思い、帰りの電車で悲しくなる。忙しいという言葉は本当に万能だ。自分の心を失わせ、周りの心をむしばむ。


そんな中でも頑張っている、快活に頑張っていて周りの人を快活にするほど頑張っている人は、でも確かに存在している。そういう人に「頑張って」ということは難しいし、おそらくそれは言うべきでもなくて、やるべきことは「私はあなたのおかげでこう頑張っています」ということを示すことができるように行動することなんだろうかな。


あなたといるのだから、僕はこれくらい丁寧に考えたい、あなたとの仕事なのだから、私はこれくらい頑張ってやりたい、と積極的に考えることのできる間柄というのが存在していることに、本当に感謝しても仕切れない。本当は、丁寧に考えた、頑張ってやった、と言い切れればいいのだけれど。。。。


実際に大学にて「仕事」をしていると、、、小さなごまかしはいろいろ出てくる。たとえばもうちょっと、あと10分あってあの本のあそこを見たら議論できるのに、というところを言えないとか、こちらの方が正式だけれども、それをやっている時間が足りないから、こっちだとか。問題は、そういう背景の理由をすっ飛ばして、はいAだよ、Bだよ、と結果だけが口に出ること。聴いている方だってなんだかおかしいかも?という小さな疑問はあるけれど、それは圧倒的な時間の流れに流され切ってしまう。その疑問を拾い上げることが、組織として大事だし、学問として、教育として大事なのに。自分としては理由をつけていっているつもりでも受け取る側はだいたい結果について強く印象づけられてしまうのだから、かなり丁寧に理由をつけて、どのような考えでそこに至ったのかを強調しないと、結果だけ一人歩きしてしまいがちだと言うことは、さんざん失敗してきて失敗例を見てきて分かっているはずなのに。


とにかく、毎日、自分が学生さんにちゃんと謝れているのか、もう一度心を入れ直して考えてみよう。そして、何かの判断、決断、提案をする際に、きちんと自分の考える理由をつけて伝えているか、もう一度考え直してみよう。いやいや、そんな応用状態ではなく、そういった立場をとることについて考えようとしているのか、自分の心の動きを見つめることが必要だ。

本拠地はこちら http://www.ecology.kyoto-u.ac.jp/~keikoba/