Vanity of vanities

Kei Koba in CER, Kyoto University, Japan

「君は君の人生の主役になれ」鳥羽和久著 を読んで(1/2 誤記訂正開始してますがまだあるかと・・・汗 ごめんなさい!)

筑摩書房 君は君の人生の主役になれ / 鳥羽 和久 著

 

一回転半、常に回りながら読むことを求められる本でした。素直に読み(絶望し)、斜めから読み(反抗し)、もう一度素直に言葉を見つめる(励まされる)、この一回転半を求められる書物はよく「難しい」とか言われるのですが、そんなことはないとおもいます。著者の良心と能力を盲目的に信じてしまえば、以外と素直にそこまでたどり着けるのだと思います。

 

あえて筆者が書かなかったことを、言外ににじみ出そうとしたことを、こちらで勝手に思いながら、結果、そこにじんわりと励まされている、そんな本です。暴かれている我々「大人」の知らず知らずの欲望に対し、その下品さに絶望なんて何十回もしたらいいのだけれど、そこからなんとか動き出そうという人に対して、実はきちんと手が差し伸べられています(そして再び手を離されてしまったりする仕組みもあるけれど)。そんなに甘いことはないのだぞ、現実は厳しいぞ、とわかっているけど、いま、この立ち止まっている場所は確かなものなんだと、ここを信じて、その上で次に移っていい、移る挑戦をしていいんだぞ、抱えている不安もそのまま大事にしていいのだぞ、と支えてもらえる暖かさがある本です。なにも声高に、簡単には希望を唱えないこの本の厳しさがむしろありがたいし、いわば同士として、ともに大きな敵に立ち向かおうと勝手に思ってしまうだけの求心力がある内容だとおもいます。

 

世界には君以外には誰も歩むことができないたったひとつの道がある。その道はどこにたどり着くのかと問うてはならない。ただひたすらに進め(フリードリヒ・ニーチェ『反時代的考察』第3部 (p16)

こんな力強い言葉を、あえてこの本では数少ない他書からの引用で与えている、あえて外部性をまとわせているところに、とてつもない読者への愛情と信頼と、真摯な態度を感じるのは自分だけなのでしょうか。

 

ひねくれた読者なので、読む前からすでに半回転している自分が、この本によって回転されられて元に戻る、でも、すでに元の場所ではない、というなんだかダンテの神曲的な回帰感を常に感じながら読み進みました。(しつこいけれども)自分はひねくれているので、本書にあまたある太字の部分はあえて引用しないで、そこからずらしたところの言葉を拾い上げてみたいとおもいます。なんとかして年が変わるまでに、写経としての引用を、kindleからコピペするのではなく、わざわざキーボードで打つことで、言葉を自分の中に沈着させたいとただ思って書いています。

 

本全体から改めて写経してみて、特に印象に残ったところを厳選するとすれば次になりますが、ちまたで言われているように、これは「子ども」だけに向けた言葉では全くなく、われわれ今の時代を生きる人間がみな考えなければならないことばかりだと思います。

 

いつも正解ばかりを求めてしまうのは、生きている実感が足りないからです(p 35)

疫禍というのは、(中略)、「わからない」ことにいかに対峙するかという戦いです。そんな中で、多くの大人たちは、わからないことをさもわかったことのように単純化して語ることを好みました。そして、すぐに誰かに模範解答を求め、その相手が解答を間違えると、皆で責め立てることを繰り返したのです(p 82)

子どもの「好き」を質にとることほど残酷なことはない(p 128)

こうした言葉を失うことには、実は大人にとって隠されたメリットがあります。それは、自分の実存を深いところで肯定できない大人たちが、自分の問題について考えなくて良くなるということです(p 139)

だって、「主体性を大切にしたい」と言う前にそもそも子どもの主体性が育っていないんですから。そんなことを言うなら、親は世間に負けないような別の強烈な価値観に子どもをさらすべきだったんです。自分だけきれいでいようとせずに、自身のぶざまな生き方を通じて子どもを徹底的に感化すべきだったんです。

それなしに、いつも先回りして子どもが嫌がることを避けることで偶発的な可能性を奪うなんて、主体性が曖昧なまま育つに決まっているじゃないですか(p 141-142)

 

ここから先は、延々とページに沿って印象に残った部分を記録し、ちょっとだけ勝手なコメントをつけていますが、とにかく全体にわたって、丁寧な言葉が綴られていています。丁寧な言葉を丁寧に読むことで、多面的に読めるように準備がなされていて、読むたびに違う意味が浮かび上がってくると思います。勉強会を一緒にしているラボの卒業生とは、来年、これを題材に一度じっくり話してみようと思います。

 

(写経とか、言葉を丁寧に、みたいなことを言っておきながら、引用が不正確で申し訳ありませんでした。偉そうに不正確な引用はいけませんとか学生さんに言っておきながらこれじゃあ・・、見つけたらまた是非ご連絡ください。自分でもまた読み直しながら見てみます 1/2付記)

 

-----------------

毎日のように彼らがこぼす愚痴を話半分に聞きながら、言葉にならないため息に耳をそばだてる生活を送っています(p 10)

言葉にならないため息、という言葉が読み始めてすぐに出てきて興奮したことを今でも思い出します。

 

人間ひとりひとりが理解し尽くすことができない存在であり、だからこそ、わからないことに対してわかったふりをしたり、はじめからなかったことのように蓋を閉めたりすることを続けるのは、下手したら人間の消滅に繋がりかねない危険なこと(p 12)

「多様性」を考える際の大前提が、なかなか共有されないのだよな、と自分を省みても思う一年でしたが、ここでもそんなことを思いました。

 

損得勘定を優先することばかりにこだわって、自分独特の生き方を手放す人が多すぎるのです(p 13)

 

独特の生き方を放棄した手負いの人たちが、自分でも気づかないうちに抑圧された怒りをため込み、ふとしたときにそれが他者への攻撃という形で暴発する(p 13)

「独特」という言葉で敢えてまとめられてしまっている部分について考えていました。

 

自分が何を手放して大人になろうとしているのかを見つめる(p 13)

この部分が、本書の中で一つ大事な視点だったと思います。大人になることに付随する手放す、ということ。手放してしまう、ということ、そこに対するどうしようもない欲望、その欲望が自覚されないままであること、などなど。

 

間違いの後には物事の複雑さが顧みられることがなくなり、偶然性は否認される(p 15)

 

理不尽と戦うための根拠を得ようとすると、認識が単線的になり、結果的に複雑さや偶然性が捨象されてしまう(p 15)

複雑さ、単線的、偶発性、偶然性、それらの間の相互関係によって、ちょっとしたきっかけで、意図していないのだけれど、ガラガラと認識が楽な方へと落ち込んでゆく、そんなことを考えさせられました。この相互関係についても何度も出てきていたと思います。

 

自分の存在の輪郭を確かめられたような快感(p 22)

この10年、至る所で「輪郭」という言葉を用いることで、落ち着きを求めてきたと思うのですが(自分もそうです)、そろそろここから脱却しないといけないなとも思います。大分すれた話ですけれども、どうしても「輪郭」(そして「地平」、「景色」)という言葉にはこの頃、過敏に反応してしまいます。別の言葉を与え始めたいです。

 

君は別のやり方でいいよ、とは誰も言わない。なぜなら、せっかく自分が犠牲にしたものがムダになるからでです(p 24)

 

嘘は罪で汚いんだという直感を決して忘れないでほしいし、諦めてしまわないでほしいのです(p 25)

大人になるとしても、わざわざずるい大人になることはない、そこには抵抗しなければならないし、抵抗してほしい。そのために「大人」になってしまっている自分としては、その抵抗をなんとかして支えられるようにならなければいけない、つまり、もう一度、嘘が罪で汚いのだという直感を取り戻す必要があるのだと思います。問題は、それがすでに自分には「直感」とはなり得ないかもしれないところだ、とも思い、ぞっとしました。

 

より高次な正解を必死につかもうとする子供たちの姿がありました(p 32)

高次な正解という言葉、素晴らしいです。様々な周辺・背景の事象がうまくまとめられています。

 

自分の経験を大人の正解に寄せて話すことで、内容に説得力を持たせようとしていました(p 32)

 

そうやって「いい子」のふりをしているとき、なんとなく自分が傷ついていることに気づいているのではないですか(p32)

 

自分が大人にとって都合のいい子供でなくてもいいと知るだけでぱっと世界が明るく開けるかもしれません(p 33)

この、子供たちの外部規範性への従属については、本当に考えさせられます。「都合のいい」という言葉の毒々しさがたまりません。

 

大人になる過程で、多くの人は自分の生きる実感よりも適応(周りに合わせること)を優先させることで自信を失っていきます。その結果、自分が好きなようにふるまえないことに対して、できない言い訳探しばかりに明け暮れる大人になります。そして、思いつきで行動しているように見える他人を「無責任」だと非難さえし始めるのです(p 33)

大人になる過程で自信を失ってゆく、と整理されているところに違和感を感じたのがよかったです。そうなのか、自分がなんとか整理して得た、大人になることに付随する喪失感、というものは、もう一歩踏み込めば自信を失っているという言葉に定まるのか、と、かなり興奮したのを覚えています。

 

まるで手持ちの少ない洋服でいかにオシャレするかを競っているように見えるときがありました。(中略) 周囲の目を過度に内面化してしまって、それが自分の意見のように錯覚してしまう(p 34)

 

彼らが大人の意見にたやすくなびいたように見えたとしても、それを弱さとして一面的に非難することはできません。むしろ、その弱さこそが考えを深めるための条件とさえいえます(p 34-35)

 

周りに歩調を合わせて「いい子」になろうとすることは、周りの人たちのためにはなるけれど、深いところで自分を支えてくれる根拠にはなりません。だから、自分が感じていることをちゃんと感じられる環境にいること、そして、感じていると気づいたときに、できるだけ嘘をつかずにそれに対処できる環境を確保することが肝心です(p 35)

 

いつも正解ばかりを求めてしまうのは、生きている実感が足りないからです(p 35)

この部分は、この本の中でのハイライトだと思いました。

 

正解というまがいもの(p36)

上の部分と呼応しますが、まさにこういうことです。本当に。正解というものを一回転半して考える必要があるのだと思うのです。

 

自分を窮屈な枠組みに閉じ込めることでしか生きることができない恨みを、子供を通じて晴らそうとしている(p 36)

このことにどう自覚的になるか、という問いは、もっと大きな、そもそも、自分がまとっている様々な「呪い」をどう自覚して、どう距離を置いて、どのようにもう一度自分に取り込むか、という話になるのだと思うのです。そのためには、事象を多面的に、多次元的に、遠近法を駆使して、メタ的に見ることが大事で、そのために大学教育には、とても貴重な重要な側面が今でもあるのだ、と思っているのですけれども。小説的な解決はもちろん重要なのですけれど、高等教育だってできることがある、というところをもっと生かしてゆかねば、何のために大学にいるのか、と焦ります。

 

「弱さ」というレッテルを貼られてそれを内面化した人は、いつしかそれなしには生きていけなくなります(p 41)

 

後付けでその子の「弱さ」が発見されることが多々あるのです(p 42)

 

目の前の子供がありもしない問題を内面化してしまうことに無頓着です(p 46)

 

心の問題を決して自分だけの問題に閉じ込めてしまわないでください(p 47)

 

生徒とフラットな関係の先生にいい先生なんていないと言うことです。なぜなら、これは学びの本質に関わってくるのですが、子どもの能力を開花させるためには、ほとんどの子どもにおいて外からの強制が必要な時期があるからです

なぜ強制が必要になるかと言えば、子どもは自分に何ができないのか、自分が何を学ぶべきかを知らない存在だからです(p 55)

 

そういう思い込みはフラットな関係ではなかなか生じません(p 55)

この学生さんと「先生」の関係については、この本を読む前からかなり自分の中では考えを変えていて、同じような結論にたどり着いていました。問題はその「フラット」な関係を壊す勇気です(アカハラとなりやすい構造であることを承知した上で)。

 

オレはいま先生だからオレのことを信じろよ、ってことを態度で語っているのだと思います。なぜなら、そうでなければ学びが発動しないことを熟知しているからです(p 56)

この「乱暴な」立ち位置が必要なケースから逃げてきたな、と思うようになりました。もうすでに学生さんたちがフラットな関係を到底作れない、そういう関係を指向しない状態の自分という存在において、フラットな関係は幻想にしか過ぎない、ということを認識した上で、それでも何ができるのか、というのを考えないといけないと、と、この数年もがいています。単に、やったことがないことを始めなければいけない、または撤退しななければならない、と言うだけなので、もがくというのもどうなのか、、、、というところですが、、、とにかくこの「学びの発動」、自分の言葉であればinspireする、というところが弱まってきている事実を受け入れることからスタートするのが自分としては大事なところなので、ここはかなり印象深い部分でした。

 

学びの土台にある欲望を見ていない(p 56)

 

学級崩壊は家庭と先生の間の階層問題という一面があります(p 60)

 

先生というのは、実社会を知らないからこそ(知っていてもそれを敢えて重んじないからこそ)子どもと関わる資格があるんです(p 60)

この部分も、この数年、考えを改めようと努力している部分です。「社会に出たら通用しないよ」みたいなつまらないことをいわないようにしようとするだけで、途端に難しくなります。砂上の楼閣にこそ、大事な役目があるのだと、しっかりと考えないといけないと思ってもがいているので(もがいてばっかですが)、ここもとても印象に残っています。

 

そもそも誰にとってもいい先生である人なんてどこにもいません(p 61)

 

知識の多寡にかかわらず、誰もが誰かの先生になり得る(p 63)

この、師と弟子の関係というのをどう柔軟に考えて、自然なものとして再構築するか、というところが本当に大事なのですが、その大事という加減が、実は一定ではなくて、年をとるごとに変わってゆくのだということを改めて実感しているところです。しかし、なんであっても、この関係を、うまく造るにはどうしたらよいのか、というところは本当に大事ですよね。授業で毎年言っている「魚の釣り方を教え教えられる」ではなく「オレのつった魚、うまいぞ、いいだろう、と自慢し、自慢されて発憤する」という関係をなんとか造りたいところです。

 

先生との出会いというのは、いったん自分の身体がバラバラになってしまうような経験です。それから、バラバラになった身体を再統合して、もう一度生き直すような経験です(p 63)

とても新鮮な表現でした。全く自分ではこういう言葉にならないけれど、なるほど、と思ったことを覚えています。

 

自分の未来の不確定性を軽く扱おうとする彼の構えに反発した(p 72)

不確定性という、複雑さや偶発性といったキーワードに新しく加わってきたこの言葉が印象深く、「構え」という表現も心に残りました。とても丁寧に言葉が選ばれているなと思いました。

 

偶発性を「ワンチャン」の一言でみずからの見方に変え、それと戯れることで大人の設定を揺さぶり、嘘を暴いてしまいます(p 77)

素晴らしい整理の仕方だなぁと感動しました。自分がどうしても抱いてしまう小さな違和感がこう整理されて、ハッとしました。

 

ワンチャンを実感として知っているあなたたちは、今の大人にはない別の感覚を手にしているのですから(p 79)

ここも、自分にはこういう言葉は絶対に絞り出せないなと感動しました。この部分、さらっと書かれていますがすごいと思います。

 

どうしても与えられたミッションをクリヤするようにしか生きることができなくなってしまいます(p 81)

 

疫禍というのは、(中略)、「わからない」ことにいかに対峙するかという戦いです。そんな中で、多くの大人たちは、わからないことをさもわかったことのように単純化して語ることを好みました。そして、すぐに誰かに模範解答を求め、その相手が解答を間違えると、皆で責め立てることを繰り返したのです(p 82)

この部分も、本書のハイライトと感じました。大変わかりやすく書かれているだけに、大変重いです。かぎ括弧付きの「わからない」ことへの忌避感覚、耐性の低さ、模範解答、単純化、など、このところずっとブツブツつぶやいていることが大変整理されて書かれています。「解答」しかないのに解答を求めて、不満と不安を高めるだけの状況から抜け出すには、自分の基準を自分の中に持つことしかないのだと思うのですが、それが大変難しいのだとつくづく思います。

 

多様性を知ることは、価値観を捉え直すことからしか始まりませんし、それは価値観の可変性に希望を見いだすことでもあります(p 84)

可変性という言葉も、希望に満ちた、本書を通じたキーワードだと思います。当たり前のように書かれているこういう文章が素晴らしいと思います。

 

だからあなたも、自分の想像に及ばないことがある、それを知ることから始めてください(p 94)

この、自分とは目の前の人は違う、という当たり前のことをどうしっかりと受け取るか、というところが、逆に自分の輪郭をどうしっかりとしたものにするか、さらには自分の規範性を自分自身から創り出すか、さらにさらに、結局、自分に対してとれるわけのない責任をとる、という一回転半なところに行き着くのですが、ここなんだ、ここが重要なのだと思うのです。まずはこの、自分の想像に及ばないことがあるのだ、という、ごく当たり前のことを、当たり前と思えるだけ感じ考え抜くこと、それは、いつ、どこで、どうやってなすべきなのか、、、、

 

私にとっての良い親の定義のひとつは、「これほど差別はいけないと思っている人でも、ある面で差別的なんだ」ということを子どもに知らしめる存在としての親です(p 95)

このアンビバレンスな物言いには慣れが必要なのかもな、とここ数年思っています(誤解されることが多いので)。しかし、こういう物言いでしか伝わらないことはありまして、、、この二面性を、、、少し単純化して清濁合わせ呑む、といってもいいのだと思うのですが、忌み嫌う視線を強く感じることが多いのです。先にあった「単純化」そして「模範解答」さらには、自分の言葉であれば「わからない」への耐性の低さ、が同時に想起されるのですが、どのようにほぐしていくべきなのか、そもそもほぐすことが「幸せ」なのか、と考えてしまいます。

 

あなたには、「優しい」世界にも差別があるということに気づいてほしいし、逆に「差別がある」にも関わらず優しい世界があるという逆説的な世界とも出会ってほしいと思います(p 96)

少し優しく書いてくださっていますが、拒否しなくていいということをつたえることから始めるので良いのだよな、とここを読んで思いました。逆説的な思考が難しくても、まずは、違和感があったときに、その違和感を大事にしていいのだ、拒絶しなくていいのだ、というところから始めたらいいのだろうと。ちょっとずれているかもしれませんけれど。

 

人類の歴史の中で、これほどまでにあらかじめ悪いことができないように設計された社会はなかったはずです(p 97)

この頃、この適切な表現をしばしばお借りして、自分でも(念仏のように)使うようになっています。すごい歴史的瞬間にいるのだと皮肉的に考えもしますが、この状況から享受している部分(たとえば犯罪率の低さとか)からも目をそらさずに、この状況からどう脱却するかを考えることは、とても自分には難しく、毎日考え込んでいます。

 

あなたは今日も、積極的に管理社会に加担するような、人間の多様な可能性を封じることに躊躇しない人格をみずから育んでいるのです(p 98-99)

 

2020年以来のコロナ禍を通じてこれまで以上に可視化されたのは、いかに大人が自分の力で何が善で何が悪かを見極めようとしないかということです(p 99)

 

しかし、善悪とは何かという問いは決して簡単に割り切れるようなものではありません。割り切れないからこそ、善悪の審判は自ずと戦略的なゲームの結果として、言い換えれば、政治的な暴力によって下されるわけで(p 99)

 

「悪い人」だから悪いことをするという判断はトートロジーの域を出ておらず、それで何かを解明できたと思ったら大間違いです(p 101)

 

このように、社会に生起する現象を、善悪などの規範的論理に頼ることなく、より客観的な形式で表現する手法を人間は探り続けてきたのです(p 101)

ここの整理も大変素晴らしいと感じました。この整理は文章として平易ではありますが、簡単ではないものだと感じます。

 

そういう大人の甘い言葉が、単に自分を扱いやすい子どもに仕立てようとする都合の良い嘘であることに気づいて、彼らはそれに全身で抵抗していました(p 104)

本当に「都合の良い」という言葉の視野が適切で、まさに都合がいいなと笑。扱いやすい、都合が良い、という言葉で端的に(醜く)示すことができるものが多すぎて驚いています。

 

しかし、彼らは少なくとも善人であることを自認するような人たちではありませんでした。みずからを善人と確信して、悪人を裁くような過ちは犯していませんでした(p 104)

 

あなたは自分の経験を世界のありのままを映したものだと規定することはできないし、誰にでも適用できるような普遍的なものだ(と)考えることもできないわけです(p 111)。

ここに必要なメタ化、つまり、このように規定もできず、普遍性も認められず、というときに、それでもやはり、と自分に引き寄せつつ離す、ということをどう一緒に味わっていったら良いのだろうかと思うのです。自分の経験という生々しい、自分のものとしか思えないものが自分から離れているべきものであるはず、といった逆説性への耐性を、自分は知的耐久性の1つと見なしているのですが、どうそれを一緒に創ってゆくか、全く模索しかできていないまま、もう四半世紀たとうとしています。

 

大人は、言葉によって新たな現実が立ち上がる力をまるで道具のように利用することで、みずからの欲望を隠したままにその目的を叶えようとする(p 114)

 

あなたは今日も親のために我慢し続けていませんか?そうやって、自分の人生を少しずつ損なわせることで、しまいに破滅してしまったらどうするんですか?(p 125)

 

子どもの「好き」を質にとることほど残酷なことはない(p 128)

本書のハイライトの一つだと感じています。毎日念仏のように唱えています。こう書くとかなり奇妙ですが、ほぼ真実で、このことを毎日必ず考える瞬間があります。

 

あなたはすっかり、「あなたには問題がある」という親が設定した思考の枠組みでしか考えられなくなります(p 130)

 

あなたはいまや自分の願望と親の願望の区別がつきません(p 132)

 

(親は)子どもが自分とは別の存在なのだということを頭でしか理解していません。だから、あなたの命と自分の命を一緒くたにして一方的に奪うことに躊躇がないのです(p 133)

 

親があなたを勝手に育てたという視点はバランスをとるためには有効です(p 134)

このようにいえる人が大人であり、この大人を子どもは必要としているのだと思います。

 

親というのは程度の差こそあれ、あなたにどう接すれば良いか、あなたの心をどう扱ったらよいかという肝心なところがよくわかっていないんです(p 136)

 

こうして親は、世間の波に巻き込まれるうちに親としてのこわばりを身につけていきます(p 137-138)

このこわばりという表現もあまりに的確でうなりました。

 

親というのは不思議なもので、自分が子ども時代を経験しているにも関わらず、親になるとなぜか子どものことがわからなくなります。その理由は、このように親としての自我を新しく実装することの代償として、それ以前にあった自分独特の言葉を失うからでしょう(p 138)

先にも述べた、大人になる際に何をどう失うかというところです。独特という言葉の包含するものにいろいろと考えを巡らせます。

 

こうした言葉を失うことには、実は大人にとって隠されたメリットがあります。それは、自分の実存を深いところで肯定できない大人たちが、自分の問題について考えなくて良くなるということです(p 139)

ここも本書のハイライトの一つだと感じています。結局自分をどう見るか、どのように見ないようにしてきてしまったことが影響しているか、ということにつきるわけで、そこがさらっと書かれています。

 

だって、「主体性を大切にしたい」と言う前にそもそも子どもの主体性が育っていないんですから。そんなことを言うなら、親は世間に負けないような別の強烈な価値観に子どもをさらすべきだったんです。自分だけきれいでいようとせずに、自身のぶざまな生き方を通じて子どもを徹底的に感化すべきだったんです。

それなしに、いつも先回りして子どもが嫌がることを避けることで偶発的な可能性を奪うなんて、主体性が曖昧なまま育つに決まっているじゃないですか(p 141-142)

ここも、先の師と弟子の関係と同じく、敢えてフラットからできるだけ逸脱するということの重要性が書かれていて印象に残りました。結局親の主体性自体が育っていない、そこを見ないようにする、ということが問題の根本なのですよね。ここは大事。重いと言わず、大事として、動かないと。本書のハイライトだし、何しろ大変わかりやすい。

 

子どもに矛盾を見せないで、「あなただけは好きに生きて行きなさい」と清潔に育てようとするのは、親の身勝手さの現れです。そうやって、自分の代理物としての子どもを使って、自分の人生の矛盾を解決しようとしてもうまくいくわけがない(p 142-143)

 

いい親であると信じ続けることで自分の傷つきを見ないで済まそうとするのです(p 144)

このあたりは、親だけでなく教師も当てはまります。

 

フレーミングを意識する親は、「私が子どもにこう働きかければ子どもはそうなる」というコントロールの欲望をむき出しにしています(p 145)

 

あらかじめ定まった正解があると勘違いさせることで、不必要に失敗を恐れさせ、そのせいでむしろ自由な成長を妨げる方向に子どもたちを仕向ける気配さえ感じさせるのです(p 154)

これは本当に強く感じます。どうしてこうなってしまったのか、誰もがよかれと思ってやってきた結果がこうなってしまうのか、と。どこで間違ってしまっているのだろうかと。

 

世間的に当たり障りのない正しい人間の方が資本的には正解(p 189)

資本的に正解、という表現は新鮮です。自分でもこの言葉を使っていこうと思います。

 

大人は無理矢理に約束を結んだという不当性を隠蔽して、今日もあなたを一方的に責めるかもしれません(p 199)

 

私が日ごろ宿題をする子どもたちを見ていてヤバいなと思うのは、彼らが宿題を「やらされる」ことを通じて「適当にごまかす」術を覚えることです(p 199)

本当にそうですが、この、抗いかたが間違っている、というのをわかってもらえないことがかなりあるのです。これは本当に良くないのですが、彼らにとって筋が通っているだけでなく、自分を含めた周りの大人も中途半端に巻き込まれているのも大問題だと思っています。

 

でも、大人が悪いからと言って巻き込まれるようにそれを自分に許すようになってしまっては、あなたもダメな大人の一人になるだけです(p 200)

これは大人である我々も同じで、ダメな大人にならないように細心の注意を払うこと、その努力を徹底的にしつつけなければダメなのです。それでも気づくと巻き込まれて、巻き込んでしまっているのですが。

 

物事を身につける際に、何も努力しなくて良いというメッセージを子どもに伝えることが良いことであるわけがありません(p 201)

ここの「勘違い」はかなり頻繁に起こります。よかれとおもって助言してくれているのだと思うのですが、学生さんはかなり微妙な顔をしながら聞いています。彼らはその薄っぺらさがわかっているのですよね。問題はこちらが彼らの表情を結局何も見ていないということで。

 

「苦しいことはやらなくていい」という大人は人間をあまりに単純に捉えすぎです(p 201)

ここも気をつけても間違うところで、気を抜くとこういう伝え方、「つらいことなんてしなくてもいいんだよ」みたいな言葉を投げてしまうのです。ほんのちょっと、厳しく注意する努力の問題だと思うのですが、その努力が払えないことが多くて、一体何のために、何を自分はやっているのか、と思います。

 

そうやって、いつも子どもを高く見積もろうとする親が「うちの子は自信がない」「自己肯定感が足りない」と言うのを聞くと、自分が地獄の脚本を書いていることにまず気づけよと、私なんかは思うわけです(p 208)

地獄の脚本、この脚本というのを意識するだけで大分変わることができるのではないかと思いました。レールを引くとかではなく、舞台を準備して脚本を用意して、と言う方が策略的な背景も含めて、より毒があって正確だなと思います。

 

あなたたちはどうにかして大人たちが描くストーリーから離れて、自分なりの価値基準で現状認識ができるようにならなくてはいけません。自分をメタで見る視点を手に入れなくてはいけません(p 209)

自分は常にメタ化メタ化と言っている人間なので、メタと言う言葉には敏感なのですが、本書ではそれほど明示的には出てこないものの、常にメタで事象をうららかに観ると言う立場は貫かれているともいます。ここは、当然ですが、子どもたちだけへの話ではなく、生きる我々すべてが考える必要があることです。

 

妙子さんはどこまでも他人のせいにすることを許されているせいで、いつまでたってもなりふり構わず自分の力でやってみることができないからです(p 211)

タイパと言う言葉の多用に表れているように、なりふり構わず、とか、先の「強烈な価値観にさらす」というような、スマートでは一見ないように見えることへの嫌悪感はつよく、そのことはもう一度考え直すべきだと思います。スマートに考え直すことが本当の意味でのスマートさであって、スマートに逃げてはいけないのですよね。

 

当たり前のことなのに、勉強を受け身で与えられ続けているからそんなこともわからなくなってしまう。学校や塾に「うちの子は勉強のやり方がわかっていない」と訴える親、授業でさんざん具体的なやり方を教わった直後に「勉強のやり方がわかりません」と相談に来る子どもは、自分で試してみるという努力をする前に、他人になんとかしてもらいたいと思っています。その時点で致命的にアウトなのに、それがどうしても伝わらないことがあります。これは勉強に限らず、生き方に関わってくる話です(p 212-213)

この「他人になんとかしてもらいたい」という立場自体に気づくことができない仕組みからどう脱却させるか、というのが本当に難しい。どうしても伝わらないし、不安も不足も感じていない相手はどうやっても動くことはない、ただひたすら空回りを続けて疲弊する、という現場をどう変えていけるのか、毎日考えていますが、手探りすらできない状態で途方に暮れています。自分という存在の外界との関わり方の根本的な問題なので、書かれているように生き方に関わる問題なので、本当になんとか違う視点をもつきっかけをつかんでもらえたらと必死にあがいているのですが、難しいです。

 

親の言葉一つに影響を受けすぎるあなたはつくづく勉強が足りないんです(p 214)

勉強、なんですよね、ほんとうに。勉強でいいんですよね、逆に言えば。見つけにくいものではなく、あふれている、目の前の勉強、から学べることはたくさんあります。

 

あなたが「成績」なんてものに振り回されている限りはたいした勉強はできません。成績はよく当たる占いくらいに考えて、それとは別の現実を味わいながら勉強を進めていきましょう(p 216)

こう「勉強」をメタ的に見ることにつよい抵抗を覚える人も多いのかもしれませんが、この視点が大事だと思うのです。

 

子どもが「何のために勉強するの?」と口に出したときには、彼らはすでに勉強に出会い損ねているのです(p 218

この、ある意味(またもや)逆説的な話も、なかなかわかってもらえないことがあります。1で10を知ることができてしまう質問ですよね。こういう質問を受けた瞬間、こちらの対応方針をがらりと変えて対応するのですが、これはよくあることでもあります。

 

勉強という手段が目的に変わった時点で死んでいる(p 219)

まさにこれです。これなんです。

 

一方で、勉強するというのは、あなたが育った日常の中にはなかった言葉と概念を次第に知ってゆくことです。そのことを通じて、あなたは新たな思考のための手札を得て、親密な人たちと共にしてきた世界から自分の人生が切り離されていくことを感じます(p 224)

 

私は、それでもあなたに勉強すること、そして、大人になっても勉強し続けることを勧めたいと思います。その理由は簡単で、私は勉強によって自分が変容し、そのことで自由になったという思いを個人的に抱いているからに過ぎません(p 225)

この「自由になる」という言葉を自分も多用するのですが、あまり伝わっていない感触が個人的にはあります。目の前の相手は自由を求めていないのだ、と思うことも多々あります。自由を求めないという自分にとっては大変意外な立ち位置も、それはそうなのかもしれないと、本書を読みながら平行して考えていました。幸せという形にも多様性があるわけで、その中には、悪魔の脚本にそって資本的に正しく過ごしてゆくのも形としてしっかり存在するだろう、そして、実はそれを求める人も自分が思うよりずっと多いのだと言うことも今ではわかっています。そのような生き方を含めた多様性ということを、ではさらに一歩、どう進めていくのか。自分と相手で違う、だから離れてゆく、ということで快適さが生まれる、という筋ではなく、もっときちんと違う相手と関わってゆく、その中で取れない責任をとってゆく、一人一人が自分の生き方を生きてゆく、という世界に近づくために、何ができるのだろうか、と考えていますが、いまは、とにかく考え続けること自体が目標になってしまっています。

 

人間たちは、勉強を通じて抽象の扉を開き、具体と抽象の間を往還することで、世の中を見る解像度を高める努力をしてきました(p 226

この文章も、先にあった社会科学の説明と同じく、大変整理された物言いで、とても好感を持ちました。素晴らしいです。当たり前のように書かれているこういう文章に含まれる誠実さが本当に素晴らしいと思います。

 

「疑う」という行為自体が、自分という主体を支える特に肝心なもの(p 228)

まさにこの疑うこと、ある意味で言い換えると「科学的立場」というのが大事だと言うことを授業でも言い続けているつもりなのですが、伝えられているのか、どうなのかなあと思います。

 

好きには嫌いがまざっているし、楽しいには苦しいがまざっていることが忘れられています。だからこそ好きや楽しいが実感できるという、自分の感覚に立ち戻ればたちまちにしてわかることがわからなくなっているのです。片方だけなんて手に入らないけど、それでも最後に絞り出して好きといえたらそれでいいじゃないですか(p 230)

こういう立場、つまり、これっぽっちというかもしれないけれど、それでも大事なことなのだからいいではないですか、という立場を見せることが、経験のない人にはとても重要だと思います。視点をずらすこと、メタで事象を見るためにとても大事だと、敢えていやな言い方をすれば、効果的、だと思います。この部分でふっと軽くなる人が多いのではないかと思いました。

 

彼らはいまさら夢の手放し方がわからなくなっている(p 239)

これも印象深い表現でした。夢の手放し方というのを若い世代に投げかけるのは、一見すると大きな違和感を伴いますけれど、この夢と言う言葉の持つ意味を考えると、むしろこの言葉をしっかりと受け止めてもらうことが大きな目標になると感じました。夢を持てではなく、敢えて夢を手放せ、といえる関係は理想的だと思います。

 

うわべだけの多様性のもとで、世界の価値観はますます均一化の方向へひた走っています(p 248)

まさにこれが問題で、いま、多様性というのがうわべだけでも捉えられるようになったところから、その次、そしてさらにその次をどう実現するのか。逃げてしまうことを局所最適にせず、より大局的に、局所最適の谷をなんとか抜けて、より大事なところへと向かうために、教育関係にいられる今の状況で何ができるのか、と言うのを考えなければなりません。

 

どうしても2022年の間に振り返っておきたかったので、なんだか満足です。頑張って考え続けなければなりません。

本拠地はこちら http://www.ecology.kyoto-u.ac.jp/~keikoba/