Vanity of vanities

Kei Koba in CER, Kyoto University, Japan

反省したり諦めようとしたり

表現されたものだけを観たら、聴いたらいいのだけれど、どうしてもその背景とか、これまでの流れとか、そういうものが気になって、そしてそこにどうしても小難しいものが含まれていてほしいというとか、自分の知らないものばかりで埋まっていてほしい、とか、でも、ちょっとは重なっていてほしい、とか、頭でっかちな考えばかりが入り込む。

 

 

その前提には、根底には、劣っている、自分たちはどうにもこうにも遅れている、という思いがある。追いつけ、追い越せ。そうやって、目標を、影を目の前に映し出せば、それはそれで楽なんだよね。

 

 

でも、もっともっと素直に観ないと、聴かないといけない。すでに素直に対峙できている若い人たちが山ほどいて、才能の塊が至るところで手の届くところに、本当に有り難いことだけれど、ある。たんまりとある。

 

 

自分がその素直さの奥底にあるあまりのまぶしさで直視できていないだけで、直視することがつらいのは、自分の感受性が鈍っているからだって、年だからだって、おカネがないから、だって、逃げているだけ。自分の思い通りではないことに、根本的な拒否感があって、それをわからないほど頭が腐っているわけじゃないけれど、そこに真剣に向き合うだけの力が、そう、力がない。でも、そこの力は、物理的なものではなく、精神的なところだとおもう。感受性を、逃げないことを支えるのは気持ちの問題で、そこはまだ鍛えてゆけることができるはず。

 

 

端的に、良いものはどうであれ良いし、だめなものはどうであってもだめなんだ、ということをはっきりさせること。それだけの簡単なことがどうしてできないのか。どうしてここまで言い訳を重ねてしまうのか。本当に向かいたいところはそこではないだろう。諦めてもかまわない。諦めることが、力を集中させることに繋がるとしっかりと目を背けずに言うことができるのであれば、それこそすべきことではないの?

 

 

言葉が重くなってゆく、重く受け取られてしまう状況からも逃げずに、その重さを受け止めるだけの力が要る。重くなければ逆に十分に弛緩することができないという身体の反応を思い出せばわかるはず。背負い込む荷物は重くて良い。軽い荷物に逃げるのはやめよう。

 

 

昨日からonlineでライブを観たり、音源を探したり、文章を探したり、ほんの少しだけ、自分のその力を強めるために大事なものを探す時間を取ることができて、ほんの数行、ほんの一瞬の休符をしっかり読んだり聴いたりできるだけで、ここまで自分の中の混沌が整理できるのかと驚いて、そして愕然とした。こんなんじゃいけません。素直に、自分の感受性に対峙すること。素直という言葉を厳しいものにすること。そこを泥だらけになりながらどこまでできるのか。

 

 

 

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